ARAKANCOの雑記ブログ

頭と身体と心を錆びつかせない為に試行錯誤する日々の備忘録

叔父のこと☆その生と死に想いを馳せて

回想録★★★

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一昨年亡くなった叔父のこと。

父と10歳離れていた叔父は、私が子供の頃から何かと気にかけてくれ、歳の離れたお兄さんといった感じだった。叔父は、大学卒業後、高校教師となり職場で出逢った女性と結婚する。しかし、子供好きだった彼らは念願だった子供に恵まれなかったこともあってか結婚後10年程で離婚してしまう。何が本当の原因だったのか今となっては知る由もないが、後に当時叔母は精神を病んでいたことが一因と叔父から聞いた。美人で、頭が良く、お洒落で、子供だった私にとっても憧れの女性だったが、とても繊細な雰囲気を持った人だった。今から15年前に何十年か振りに再会した彼女は、60歳を迎える頃だったと思うが変わらず美しく魅力的だった。

叔父は、程なく再婚し二人の子供にも恵まれ幸せそうにみえた。再婚相手は、先妻とは全く違ったタイプの女性だった。容姿も雰囲気もまるで正反対のタイプ。

叔父は、先妻と別れる時に10年後のある時刻ある場所で逢う約束をしたと私に言ったことがある。そして、それが実現し、たまに連絡を取り合うようになったこと。。。そんなことを話す叔父は、無邪気でまるで恋する少年のようだった。彼女の方は離婚後、再婚することはなかったが叔父は既婚者だからただの不倫話と言えばそうなるのだろうが、最後の最後に"不倫"という艶かしい不確実な言葉とは次元の違う"縁(えにし)"の存在を感じることとなる。

 

叔父の晩年は、客観的にみると惨めに映るだろう。子供の頃から紙一重的に数学が出来たらしく学校の先生からは数学者になるように奨められたそうだ。国立大学の数学科に進んだ後、優秀な生徒ではなく"落ちこぼれ"という扱いをされる低学力の生徒の学力向上に尽力したいとの思いからとある高校の教師となる。同時に彼には陸上競技の選手としても類まれな先天的な運動能力も備わっていた。正しく文武両道だった。しかし、それとは裏腹に精神的に自己コンロトールができない弱い部分も併せ持っていた。

 

早くに夫を亡くし、9人の子供を産み戦争の混乱でそのうち6人亡くすも女でひとつで子供達を育てた祖母。末子の叔父には甘かったようだ。酒が原因で何度も不祥事を起こす若い頃の叔父の尻拭いをしたらしい。

 

時を経て私は大人になり叔父を含め、親戚たちとは冠婚葬祭時くらいしか顔を会わせなくなっていた。そんな中、時より聞く叔父の噂は良いものではなかった。酒と女で身を滅ぼしていったのだ。お酒を飲んで午前様で学校に出勤したりはよくあることで、サラ金からの借り入れや退職金で返すからと言って複数の同僚からお金を借りていたそうだ。一度、私に中国語を習わないか?と言ってきたことがあった。20歳の中国人女性の面倒をみていると。。。つまり騙されてお金を貢いでいたのだ。その額は1000万円にも上ったらしい。そのうち、私の父や親戚にも借金の申し入れをするようになった。一度貸してしまうと繰り返すから本人の為にならないと皆示し合わせていたので、近親者はお金を貸すことはなかった。何とか定年まで勤めあげ、3000万円程の退職金があったそうだが、借金を返すと全く残らなかったどころかまだ残債があったという。再婚した叔母との結婚生活は子供逹が中学生の頃までは大きな問題はなかったようだ。しかし、叔父は酒に酔うと叔母の前で先妻の話を度々していたという。

そして、その夫婦関係に亀裂は入る決定的な運命が待ち受けていた。大学に入学した長男が重度の精神病を発症したのだ。隔離病棟に入っていたというからそれは深刻なものだった。その病状は多少落ち着くも回復をすることはなく未だに一般の生活には戻れていない。夫婦が協力して障害を負った子供のサポートをし絆が深まるという方向へは行かなかった。それは、あまりにも深刻な病状が続き親子が一緒に過ごせない時間が長かったこと。叔父がその状況から逃げてお酒や遊びに走ってしまったこと。しかし、根底にあるのは叔父が先妻のことを忘れられずにいることを叔母を含め、子供たちも気づいていたことなのではないかと思う。

叔母は退職金を全て使い込んでしまってた夫に対して、年金その他の収入を全て管理し、叔父に一銭のお金も与えなかったという。さらに食事も作らず、家庭内別居を続けた。それは長年の間、自分以外の人を愛し続けた夫に対する報復だったのだろうか。

やむを得ず60歳を過ぎて叔父は温泉旅館での下働きのアルバイトに出て、食費と幾ばくかのお小遣いを稼いでいたらしい。その頃には私たち親戚との付き合いは殆どなくなっていた。

 

そんな生活が10年あまり続く。。。

 

 長く続けたアルバイト先では働きぶりも真面目で、仲間内ではリーダー的存在だったらしい。夫婦生活は相変わらずだったが、この期間は自分の居場所を見つけ、叔父なりに楽しくやっていたのかもしれない。

 

そして、職場の健康診断で末期のすい臓ガンがみつかる。73歳、余命三か月と告げられる。

 

なんて寂しい惨めな最期なんだろう!正直私はそう思って涙が出た。神童とも呼ばれる程の数学の才能とケガをしていなければ東京オリンピックにも出場出来たかもしれない

類まれな身体能力を神様から授かったのに・・・なぜもっと相応しい人生を生きられなかったのか。

 

小学生の時、夏休みに妹と一緒に叔父夫婦の家へ遊びに行った時のこと。

ぴかぴかの新築の一軒家はまだ木の匂いがして、叔父と叔母は仲良く冗談を言い合って笑っている。食べたこともないお洒落なお料理が出される。たぶんあれは”トマトとモッツェレラチーズのカプレーゼ”だったと思う。叔母が、叔父のために買ってきたピンクのワイシャツを私に見せて「どうこれ?こういうの○○さんに似合うよね?」とほほ笑んだこと。

叔父の勤める学校の体育館で一緒にボール遊びをしたこと。。。

思い出すのはずっとずっと昔のことだった。

 

けして人を非難しない、愚痴を言わない、人の悪口を言わない、怒らない叔父だった。金銭欲、出世欲、名誉欲・・・世の中のほとんどの人が持っているものを彼は持っていなかった。彼の人生観はどういうものだったのか聞いてみたかった。

 

沢山の人に迷惑をかけたかもしれないけど、私にとっては優しい叔父だった。

妹の結婚相手を探してくれたも叔父。妹が今幸せな人生を歩んでいられるのは叔父のおかげ。

 

最後に叔父と会ったのは、亡くなる一か月ほど前入院していた病院で。もう、ガンが全身に転移していて起き上がることはできない状態だった。痩せてはいたけれど、意識ははっきりとしていて会話は普通に出来ていた。表情はとても穏やかで、笑顔さえ浮かべている。そう、とても晴れやかな笑顔を。今死に瀕している人間とは思えない柔らかなオーラが彼を包んでいた。

 

叔父が私だけに話したいという素振りを見せたので、顔を近づける。。。

「○○(先妻の名前)がね、胃がんで先週亡くなったんだよ。」とかすれた声で言った。

「今日この話をしたことは誰にも言わないでね」とも。

人の死を語る時に嬉しそうというのは不謹慎だけれども、叔父は嬉しそうだった。

”向こうでもうすぐ会えるから待ち遠しい”とでも言いたげなくらいに。

 

彼女の最後の言葉は「ちょっと、はしゃぎ過ぎました」だったそう。

この言葉が何を意味するのか私はすぐに分かった。彼女らしいと思った。

 

それから本人の希望で自宅に戻り、元看護師だった叔母の介護の元、一か月後

家族3人に看取られ叔父は逝った。

 

叔父の人生は惨めだったのだろうか?財産も名誉も何も残せなかったけれど、

どんな形であれ50年もの間たったひとりの人を深く愛し続けた。羨ましいとさえ思う。最後のあの笑顔を私は忘れない。

 

もう誰に気兼ねすることもない。今度は二人でずっとずっと一緒に仲良くね。

お似合いだよ本当に。

 

★★★★★